旧正御影供でした

令和4年4月21日は旧暦の正御影供(しょうみえいく)でした。

弘法大師空海が高野山奥之院で入定(にゅうじょう)された日です。

 

昨年はコロナ禍でもあり、ひとりぼっちで正御影供をおつとめしました。

今年は法要の前に御詠歌講のメンバーが入定和讃など御詠歌の奉詠をしてくださいました。

御詠歌「入定和讃」は、弘法大師空海が入定される様子から始まり、入定後に帝の枕元に立ち和歌を詠み、弘法大師の名前とお衣を授けたことを七五調で切々と説きます。もの悲しいメロディーと相まって心を打ちます。

毎度、ありがたいことです。

旧正御影供とは?
高野山では「命日」とは絶対に言いません。

弘法大師空海は「亡くなっていない」からです。
ちょっと矛盾していますが、その理由を紹介しておきましょう。

弘法大師空海は中国で授かった密教を日本に弘めた人です。

その中心になる教えは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」でした。

つまり、生きたこの身このままで仏になれるという教えです。

それまでの日本仏教は、何度も生まれ変わり、気の遠くなるような時間修行を積み重ねなくては仏になれないというのが定説でした。弘法大師空海は、それを打ち壊した新しい教えを持ち込んだので、相当の反発もあったようです。

しかし、人々は弘法大師空海の人柄に触れ、徳の高さに触れてファンになっていきます。

そして今もなお衰えることなく信仰が続いています。

さて、弘法大師空海は62歳で入定(にゅうじょう)しています。
なぜ入滅(にゅうめつ)や寂入(じゃくにゅう)という言葉を使わないのでしょうか。

その理由は「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」にあります。

 

弘法大師空海は自らの体を使って永遠に仏になる即身成仏を成し遂げました。

つまり、仏に成ったまま、今でも高野山奥之院で私たちを見守っておられるのです。

弘法大師空海は、ある日突然に十人の高弟を集め自らの入定(にゅうじょう)の日時を予言しました。
「私は3月21日に即身成仏を体現するため、穀物を断ち水も断つ。そして弥勒菩薩のもとで永遠に人々を救いたい」

あまりに突然でした。自分の命日を預言したのですから、驚かない方がおかしい。

この時、弘法大師空海は62才。高野山も完成していない状態でした。

「まだこれから法を説いてくださらなければ」と弟子たちが考えるのも無理はありませんでした。

 

弟子たちは、口々に言います。

「ずっとお慕い申しておりましたのに、これからどうすればいいのですか」
「空海さまがおられてこその高野山。完成の日までどうして待てないのですか」

弘法大師空海はこたえます。
「私は自ら即身にして仏と成ろうと決めた。涙をこぼすでないぞ、寂しく思うでないぞ。そなた達が私の名を呼べば、この身を千にちぎってでも駆けつけようぞ」

弟子達は、膝をかきむしる者、床に伏せって涙を流す者、じっとこらえる者、様々でありました。

弘法大師空海の決意は固い。そこで弟子が提案しました。
「せめて、そのお姿を写させてもらいたい。」

描かれた肖像画が「御影(みえい)」と呼ばれ、1200年経った今でも高野山に現存します。
御尊像は左手に五股杵、左手に念珠を持ち、椅子の上に座っておられます。
空海上人が在世中に十大弟子の一人である真如親王がお写しになりました。
そして空海上人が御自身で眼を入れて完成されたものです。
原本は国宝として高野山にの御影堂に収められています。

 

真言宗の寺院では「御影(みえい)」を掲げて弘法大師空海の入定を供養します。

この法要を「御影供(みえいく)」といいます。高野山でも山内をあげて盛大な法要が行われます。
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特に弘法大師空海が高野山奥之院で入定した3月21日は「正御影供(しょうみえいく)」と言います。

さらに、弘法大師空海が生前に使っていたであろう旧暦の3月21日に行う場合は「旧正御影供(きゅうしょうみえいく)」として正御影供と区別しています。

私たち末寺の寺院でも同じように法要が営まれました。
弘法大師空海が残してくれたものはたくさんあります。

これからも大切にしていきたいと心を新たにする日でした。

 

合掌

 

仏教の知恵で心豊かに過ごせますように祈念しております。