本堂で一人静かに読経していると、「何のために読経をしているのか」と問う人がいました。
問うた人は、読経は供養のために唱えるものであり理由もなく読経するのはおかしいと思っているようです。
私は一寺を預かる住職です。
誰のためでもなく御本尊に祈りを捧げるのは住職の役目です。
「何のために読経しているのか」という問いには、「私が住職という役目を与えられているから」です。
誰でもが住職になれるわけではありません。
どんなに信心が篤くても、どれだけ仏教に通じていても、御縁がなければ住職になることはできません。
めったにない御縁によって住職になっているからこそ、一人静かに読経して御本尊に祈りを捧げるのです。
困ったときだけ、調子のいいときだけ御本尊に頼るのではありません。
何もないときだからこそ、御本尊に祈るのです。
高野山の先生に言われたことを今でも思い出します。
「あなたたちは将来、寺の住職になっていくことでしょう。寺の住職である前にひとりの僧侶であることを忘れてはいけません。俗な言い方をすれば、お布施をもらわない読経をどれだけできるかがあなたの僧侶としての価値を決めるのです」
読経は供養のために唱えるものであり理由もなく読経するのはおかしいと思う人もいます。
でも、私は僧侶として、住職という役目を与えられた者として一人静かに読経したいと思います。
空海は
「私たちの身体は満開になった花ようにいつか枯れ落ちてしまうけれど、心は香りのように漂うものだ」と説きました。
私の香りが残り香のように漂うことができるよう精進したいものです。
合掌
仏教の知恵で心豊かに過ごせますように祈念しております。